6/8-11ネパール大地震被災地ドラカへ

 

6月8日(月)

8日の18時半ころポカラのうちを出て、プリティビチョークから夜行バスでカトマンズに向かった。うちの宿のスタッフ、アスミタさんの村ドラカに彼女の案内で行く。

バスは朝5時半にカトマンズの入り口のバスターミナル、カランキ着。ここからシティバスでバスパークに向かった。カトマンズから北東に位置するドラカ行きのバスはここから出ている。チケットを買い、まだバスの出発には3時間もあったので、カトマンズの世界遺産ダルバール広場に行ってみた。

ダルバール広場の寺院は、すべてが壊れてしまったわけではない。今見ても趣のある建築物が残っている。でも、人々が毎日参拝してきた寺院が、粉々になってたり、ひびが入っているのは痛ましい。

ただ、報道のイメージから、街中が崩壊しているのかのように思ったが、そういうことはなかった。ボタヒティ、アサン、ニューロード辺りを歩いたが、そんなに以前と印象は変わらなかった。野菜、衣類などの露天商が並んでいた。

 

6月9日(火)

朝8時、チャリコット、ファスク(ドラカ)行きのバスは、カトマンズのプラノバスパークを出発した。1人480ルピー。荷物はバスの屋根の上に載せた。屋根の上で「落ちないか? 無くならないか? 大丈夫か?」と何度もバスのスタッフに確認した。座席は埋まってはいたが、混んでいるというほどではなかった。

道は、アラニコハイウェイを行く。カトマンズからバクタプル、ドゥリケルを経て、シンドゥパルチョークからドラカに入る。バクタプルから後は、至るところで建物が壊れていた。バスが走り始めて1時間半くらいまでは、支援で造られたらしいアルミの板を半円形にした仮設住宅が建っていたが、その後は見かけなかった。

6月2日、ドラカに支援のために飛んだヘリコプターがシンドゥパルチョークで墜落し、4人が亡くなった。その現場の前も通った。バスのスタッフが「あそこが事故現場」と指差した。バスが走り出して2時間のところ。私は事故が起きたのは、もっと山深いジャングルのような場所をイメージしていたのだが、国道沿いの渓流の低い丘だった。丘の一部が焦げたようになっていた。なぜ、こんな幅の広い川沿いの低い丘で? 視界が急に悪くなったのか?

バスはどんどん高い山を上っていく。渓谷が深くなる。シンドゥパルチョークは家屋の崩壊の仕方が激しかった。一部崩壊じゃなく、ガラガラとすべてが壊れてて、瓦礫だけが残っていた。谷の向こうの丘陵は、てっぺんから土砂崩れの跡が何本も残っていた。

12時50分ムデをMudhe経て、13時ころKhalidhungaカリドゥンガを通過する。1つの山の尾根まで来た。かなり高いところだ。ここから数時間でチベット(中国)国境。もっと高度が高いのかと思っていたが、そうでもない。耳がキーンとする感じも全然ない。

このKhalidhungaカリドゥンガ(黒い石)の景色はかなり独特だった。なぜかこの一帯だけ、乾いたような黒い小さな石がたくさんある。近くに小さな池があって、ボートもあった。中国語の書かれたテントがあって、救護にあたっているようだった。

この後、バスには学生がたくさん乗ってきて混み始めた。同行してくれているアスミタさんが「Charikotチャリコット辺りは盗みが多いから、カメラはかばんにしまって」と小声で言った。

14時ころCharikotチャリコット到着。Kathmanduカトマンズから6時間かかった。

CharikotチャリコットはDolakhaドラカの一番大きな町。「地球の歩き方」には出てないが、シーズン中には外国人観光客が多く、ホテルもたくさんある。病院、商店、専門学校などの大きな建物が並んでいた。激しく倒壊している建物はあまりなかったが、病院の建物には大きなひびが入っていて、仮設のテントが建っていた。

野菜を売る露天商、米、衣類、雑貨などを売る店など、物は普通に流通しているように見えた。中国からも物が入ってくるそうで、全体的な物価はPokharaポカラよりも安いかもしれない。米30キロはPokharaポカラより50ルピー安く、1525ルピー(良質な物)だった。ただ、バス、車代は安くないようだ。タクシーは数がなかった。ここから目的地のPhasku(ファスク)の村に向かうバスは、1日1本、15時発だけとのことだった。

Dolakhaドラカの中心市Charikotチャリコット15時発。カトマンズから乗ってきたバスがそのままTamakoshiタマコシ、Phaskuファスクに向かう。

チャリコットまでアスミタさんの村から2人の身内の女の子が私たちを迎えに来てくれていた。村まで約3時間。舗装されていない村道を行く。バスの運賃が1人100ルピー、荷物を載せる場合はその料金も別に掛かる。100ルピーは、日本の価値にしたら1000円くらいになると思う。これしか交通手段がないから仕方ないのだろうが、村の人にとっては大きな金額だ。今は地震の影響で、人々は家の補修のために、アルミの板、食料など大きな荷物を載せていた。その上げ下ろしで時間がだいぶ掛かった。

バスはガタガタ道を揺られながら登って行った。時々大きく車体が傾いた。Tamakoshiタマコシという、Tamakoshi Riverタマコシ川近くの場所が小さな町になっていた。CharikotチャリコットからこのTamakoshiタマコシまでは年間通じて、1日に何本かバスがある。この川に建設中の橋が架かっていたが、現在バスはその川の浅瀬を横断している。これが雨季になると水が溢れるので、バス自体が運行中止になる。そうなると、ここから上の村に物を運ぶのは人力だそうだ。

バスは普通3時間で着くはずが、荷物の上げ下ろしが多かったので、それに時間を要し、4時間掛かって19時にアスミタさんの村、PhaskuファスクGabisaガビサ Word2に到着した。

 

 19時バスを降り、運んできた荷物を下ろす。バスはさらに上に昇っていった。

アスミタさんの家は、ここから10分くらい林の中を登ったところにあり、途中に何軒か家がある。

アスミタさんの家族の女の子2人が30キロの米の袋を、アスミタさんもその他の荷物を運んだ。運び方は、額にひもを掛け、そのひもで荷物を括って背中に背負う。この物を運ぶ姿は、ネパールの象徴的な写真としてよく紹介されている。これは坂道を昇るのに好都合だからなのか? 同じネパールでも、インドに近いタライ(平野部)では頭のてっぺんに荷物を載せて、背中をまっすぐにしている。

女の子2人は、さすがに疲れて「あー、めまいがする」と言っていた。男の子が運ぶほうがいいんだろううが、なぜか家族の中に男の子があまりいなかった。子供は女の子だけだった。

こういう場合、私は完全に「お客様」で、私の軽いかばんまで持ってくれる、という。「いい、いい、これくらい持てるって!」と言った。私も、そんなに体力がないほうじゃない、と思うんだが、重たい物を持って坂道を昇るというのは、確かに慣れてないかもしれない。

ちょっと薄暗くなってきたころ、ようやくアスミタさんの村の家に着いた。ポカラのうちを出て、ほぼ24時間。

家は、ヤギの小屋だったところを少し広くし、アルミの板を屋根、壁に貼り合わせた物だった。これを造るのに、アルミの板、鉄、くぎなどを購入して合計11,000ルピー。これに作業をする人を2人雇って9日間くらい時間が掛かり、合計23,000ルピー使ったそうだ。

アスミタさんの家の場合は、壊れた家からアルミの板、鉄などを取り出し、作業も建築の職人をしているご主人が自らやったので、少し費用を抑えられたそうだ。もしも壊れた家から使える材料がない場合、材料費だけで15,000ルピーは掛かると言う。作業をする人の料金は、職人が1日900ルピー、物を運ぶ人1日600ルピー。この人件費は地域によって異なると思う。ポカラよりこの村の方が高いかもしれない。雨季が始まる前になんとかこのくらいの仮設は造りたいが、まだブルーシートでしのいでいる家も多い。

従来の家は、石と土、木などででできていた。家の2階部分は、7年前アスミタさんがここに嫁に来たので建て増ししたという。家の人によれば、地震が起きて一瞬で壊れたそうだ。4月25日の本震でひびが入り、危険なので住めない状態になり、5月12日の大きな余震で完全に倒壊したそうだ。もう一度新しく家を造るなら、4つ部屋のある家にしたとして40万ルピーくらい掛かるんじゃないか、という。

毎月の収入が1万ルピーあるかないかの生活をする、一般的なネパールの人。もともと金銭的に貧しい村だったのかもしれないが、地震による家の建て直しさえなければ、平穏に暮らせていたのだろう。復興までにいろいろな問題があると思うが、そのなかの大きな1つが家の建て直し費用だろう。私たちも、もしもポカラの家が壊れてしまったら、もう一度立て直すお金はない。ネパールの物価は年々10%くらい上昇しているから、建てた当時よりも何倍も費用が掛かるのだ。

5月12日の大きな余震で一番大きな被害が出たのはここドラカだった。ポカラでは体に感じる地震はほぼなくなったが、ドラカでは余震が続いている。私がいた2日間で計6回くらいはあった。私が気がついただけで震度2くらいが1回。人々も少し慣れたようで、騒いでいたりすることはなかったが、尋ねてみると「地震が怖い、不安だ」と言っていた。

食糧が不足している、という話を聞いたが、この村に関しては米、塩、油などお金で購入しなければならない物が不足している、という意味で、食べ物がまったくなくて飢えている、というわけではなさそうだった。米はないが、ひえ、とうもろこしなどはあった。

それどころか、私などは「お客さん扱い」で、しかも「痩せている。もっと食べないといけない」と心配されてしまい、ご飯をいっぱい盛ってくれてしまった。さらには、ひえやとうもろこしの粉(米と同じようにおかずと一緒に食べる)は「村の物は美味しいんだから」と言って、何キロもお土産に持たせてくれてしまった!

他の被災地のことはわからないが、この村に関しては、家を造りなおす費用、お金が一番喜ばれるような気がした。想定していなかった大きな支出が一番の問題なんだろう。

ただ、それには大きな金額が必要となる。とても個人の寄付どころでどうこうなる問題じゃない。

以下は余談――。これは今回の地震に限らず、日本人がネパールに支援しようとして、よく聞く話なのだが、ある特定の村、部落、家庭に支援すると、周りのネパールの人から「なんであの村だけが支援してもらえるの? なんでうちの村にはくれないの?」と言われる。

一方、支援する側の日本人でネパールのことを知らないと、「なんで、支援してあげてるのに、ありがとうどころか、もっとくれ、と言い出すの?」と思う人もいると思う。

ネパール政府は被害があった家庭に1万5000ルピーを支給する、と言っている。政府のやり方も見ていかないといけないんだろう。

 

6月10日(水)

 

アスミタさんの家族、リタの案内で村の中を見て歩いた。10戸くらいの家を見たと思うが、無事な家は1つもなかった。修復ではきかない。全面的に造りなおさないといけない。お金がかかってしまうな。

この村の間に深い渓谷があって丘陵に面している。この対面した丘陵で大きな土砂崩れがあって2人亡くなったそうだ。

 

以下は村の情報――。

学校

村には公立学校(10年生まで)が2つある。私立学校や大学はない。アスミタさんの家から歩いて15分のところに1つあり、ここには歩いて1時間半くらいかかる地域からも子どもたちが通っている。生徒は200人くらいはいるようだ。もう1校はここから歩いて2時間くらいの村の下方にある。学校は地震の被害はなかった。

葬儀

滞在中、村人の1人が亡くなった(地震とは関係ない。病死)。チベット人だそうだ。アスミタさんのお義父さんがお葬式に出かけていった。ネパールでは、ヒンドゥー教系の人々が亡くなった場合は、火葬して川に流される。このチベット人の方は、土に埋葬されたそうだ。ヒンドゥー教系の人が亡くなった場合は、かなり下方の川辺に火葬しに行くという。

医療

病院はチャリコットにあった。村の中にはない。薬はチャリコットから運んできたものを入手できる。

民族

アスミタさんの家はチェットリ(王侯、軍人カースト)。村にはさまざまなカーストと、ネワール、タマンなどの少数民族がいるとのことだった。

穢れの習慣

食事の後、歯を磨こうと思って、いただいた水の残ったコップを手に取ろうとした。コップは、食べ終わった後の自分の皿とその下に重ねた他の人の皿の上に置かれてあった。別に、食べ散らかした残飯だらけの皿だったわけではない。実質コップもその中の水も、何も汚れていない。

コップを手に取ろうとすると、アスミタさんが「あ、これジュート(穢して)してしまったよ。新しい水を使って」、という。私の食器に、他の人の食器が触れてしまったのが“穢れ”になるのだ。飲み水は汲んでこなければならない貴重なものなので、「いや、歯を磨くだけだからいいよ」と、私はそのコップをそのまま使った。

私は外国人だから、本来穢れた(神様である牛を食べるなど)人なわけだが、そういう差別的なことはなく、むしろ私にとって「穢れ」になってしまうことを気にしてくれた。

そして、この文章を書きながら気がついた。私も、「歯を磨くだけだから(飲むわけじゃないから)」という返答をとっさにしていた。飲むというと、どうしても新しい水をくれてしまう、という心理が働いたのだろう。もしも飲んだら、彼らを困惑させてしまうかもしれない。もっともこの習慣は、人や場面により変わってくるとも思う。

 

6月11日(木)

 夜行バスで行き2泊して夜行バスで戻る、という大地震被災地ドラカ訪問だった。

 小さな村1つ訪ねただけだが、復興費用は大変な負担だと実感した。国全体で、死者9,000人近く、家の倒壊527,829戸、一部倒壊277,841戸(Ministry of Home Affairs)という災害の規模だから莫大な費用が必要だろう。

PhaskuファスクGabisaガビサの村は平穏な良いところだった。私は天候に恵まれず拝めなかったが、村からはヒマラヤの1つGaurishanker(7,134m →

https://en.wikipedia.org/wiki/Gaurishankar)が目の前にそびえるのだそうだ。緑と畑の丘陵に、赤茶色の土と石の家が点在した美しいのどかな村を見てみたかったな・・・。

 宮城県松島在住のお客さんがいる。松島は東日本大震災で津波の被害が少なかったことから、この観光地・松島を復興の拠点に、との考えがあると当時聞いた。「被災地を訪ねることがひとつの支援」というお話もうかがい、日本に帰って旅行をする際はここ松島にした。

 今、ネパールではポカラが松島と似た状況で、なぜか観光地・ポカラだけが被害がなかった。私が2回松島を訪ねたのは、運命の皮肉だったのか、いや教訓だったのだと思いたい。

 ネパールの支援活動はいろいろと難しい面もあるが、私ができることとしては、まずここポカラにお客さんを呼ぶこと。それから始めよう。被災地まで行きたい方がいれば、それにも応じられるように。ピンチをチャンスに。これを機に、空ゲストハウスから、日本人×ネパール人の新たな交流が生まれれば、と願っている。(山岸美江)